竹島雪見酒 竹島の戦い






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李承晩ラインでの戦い

日韓漁業協定による暫定水域
竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、
周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。
現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、
現在最も問題になっているのは漁業権である。
竹島と周辺海域の経済価値は、
1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、
1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円、
2010年の韓国の算出では年間11兆5,842億ウォン(約8600億円)だそうです。。

1952年1月18日に韓国の李承晩大統領は、
海洋主権宣言に基づいて漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、
竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言した。

1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までに、
韓国軍はライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、
日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留した。
韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。

1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、
日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。
同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。
済州島付近で同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡。
また日本人漁師の瀬戸重次郎が殺害されている。

同年4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、
日本の水産高校の船舶が独島義勇軍守備隊に拿捕される。

6月27日に日本の海上保安庁と島根県が竹島調査を行い、
「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建て、
竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。
すると、
7月12日に竹島に上陸していた韓国の獨島守備隊が
日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9[17]) に90mの距離から
機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる。

以後、韓国は竹島の武装化を進め、
日本の艦船の接近を認めていない。
日本政府はこの韓国による竹島を武装化する動きに抗議しているが、
韓国側は「内政干渉」として退けている。

なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、
日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった。
この韓国の行為に対して
日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した。

また、韓国李承晩体制下に行われた、
かかる行為を1960年駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、
国務省への機密電文[20]の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、
「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている。